推進型便器の発明と発展
■便器を浮上させる理論
最古の推進便器のアイディアがレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿に見られる。我慢時の重力に逆らう上向きのエネルギーによって便座を浮上させるという、後のフンバルト理論に近いものが記されている。
その後も便威の噴射で推進力を得ようという試みが幾多の技術者によってなされているが、記録に残る限りでは全て失敗に終わっている。
■フンバルトエンジンの発明
1870年、ドイツ人技師ベン・フンバルトが便威を推進力とする画期的エンジンを開発。配管工だったベンは各地に工事に赴く中で「トイレの時間に移動ができないのは効率が悪い」という考えに至り、15年に渡る試行錯誤の末に走行するトイレを完成させた。推進機関のサイズにより、初期型トイレは直径5メートルと巨大なものになっていたが、改良を重ねることで小型化に成功し1875年には現在のサイズに近い移動便器が完成。但しエネルギー効率は悪く、最高時速は思いっきり踏ん張っても15km/h程度だった。
■量産と普及
1880年にはドイツとフランスにおいて移動式トイレの量産が開始される。当時の自動車と比較して安価であったため広く普及したが、慣れるまで操作の難度が高く交通手段として定着したとは言い難い状況だった。また、初期のものは安全性が低く、逆流や漏れが頻発した事から一部の地域では便座による移動は禁止とされた。
■第一回トイレットレース
1882年、フランスの便器見本市においてレースが開催された。記録に残る最も古いレースである。ベンフンバルト氏自らが設計した便座で参加し優勝。それまでは「走った方が速い」などと揶揄されていたが、このレースにおいて「便座は速い」という認識が世間一般に広まった。
■便器の軍事利用
第二次世界大戦においてドイツ軍が後部タンクにMG34機関銃を搭載した突撃便器(Angriff Toilettensitz)を開発した。強化された第二世代フンバルトエンジンにより最高時速70km/hを誇り、小回りの良さを活かし主に都市部での制圧作戦での運用が期待されていた。被弾面積の小ささと単価の安さもあって参謀本部の中にはこの便器を主力とするよう献言したものもいた。主に東部戦線で実戦投入されるものの操作性の悪さから足手まといとなり、残念ながら殆どが撃破されている。
日本の便座レースの歴史
■川谷式推進便器
明治15年(1882年)に伊藤博文らが海外より持ち帰った移動便器は大きな驚きで迎えられた。西洋に負けない便器を国内で製作しようという川谷都委零により明治24年に初の国産便器「尾摩流丸」が制作された。
■便座競争の開催
大正時代になると西洋のトイレットレースに憧れる庶民らが、ドーナツ状の板を尻に当てて徒競走を行う「便座競争」が各地で行われ、後の「便座レース」という呼び名の元となった。また、大正9年には第一回箱根激便が開始される等、便器での走行は国民に広く浸透していく。
■戦時中の西洋式便器弾圧
太平洋戦争が始まると、西洋式の便器は敵国の文化とされ弾圧の対象となった。1943年には日比谷公園に西洋式便器が集められ、打ち壊された後に焼却された。焼却が行われた場所に現在は当時の便器を弔う供養塔が立っている。軍の情報統制により正式な記録は少ないが、川谷都委零の著書「西洋便器との決別」には西洋式トイレがある家を群衆が焼き払ったという記載がある。
■特攻便器
戦局が悪化すると本土決戦を想定した陸軍により各家庭の和式便器を兵器に転用する特攻便器「弁天」の開発が進めらた。便素を搭載した便器に跨った状態で敵に突撃するもので、操縦者は便器もろとも爆発する。実戦投入を目前に研究施設で起きた逆流事故(工作員によるものという説が有力)により広範囲に及び地域が汚染され、開発は中止された。
近代便座レース
■さらなる改良
戦後、世界各国で数々の研究開発が行われバランスや走行性能が大幅に向上した。特に日本の川谷重工による反復便威転換動力装置は次世代フンバルトエンジンとも呼ばれる。
■本格的便座レースのスタート
1953年に国際便座レース連盟(IFTR)が発足。世界各地でグランプリを行う現在の方式が確立された。また、各国でバラバラだったルール、レギュレーションの統一が行われた。
■便座レース黄金時代
尻矢傑 ・ブリュッセル・雲剋斎・フルーチン・マルミエール・そして若き川谷勉三らが争った1980年代の事を指す。現在のスピード重視の展開よりも、より激しい便威と便威のぶつかり合いが見れたとして、当時を便座レースの絶頂期であったとするファンも多い。
■高速化と便座レースの広がり
21世紀に入ると第五世代フンバルトエンジンが開発され、時速200km/hを超える便器が登場し世間を驚かせた。また、数々の技術革新により安価で高性能な便器が一般市民でも手に入るようになり、便座レースはさらなる盛り上がりを見せる。
大逆流事故とその後
■マルミエ・フルーチン事件
ある便座レース大会においてレース終了後にマルミエール選手とフルーチン選手が便座を取り違えたまま本国に持ち帰ってしまった事件。当時優位を誇っていた東側のフンバルト技術が西側に流出した。様々な憶測を呼んだが、フルーチン選手がスパイ疑惑をかけられ西側へと亡命を余儀なくされた。両選手共「間違えて持ち帰ってしまっただけ」と主張している。
■大逆流事故
アク州ヨゴレイクで行われた便座レースで起きた事故。便座レーサーが密集した場所で誰かの便器で大規模な逆流が起き、間近にいたブリュッセル選手が大気圏外に飛ばされた他、川谷勉三選手が行方不明に。事故によりフンバルト社の株価が急落。ヘデルセス社の飛躍的成長につながったため、数々の陰謀説が存在するが真相は不明。これを機に世界的に便座レース人気が失われ、現在の人気を取り戻すまで便座レースは冬の時代を迎えることになる。事故以降、レース会場にバキュームヘリの待機が義務付けられた。
■大逆流事故の原因について
第三者委員会の調査の結果、誰かがパンツを詰まらせた説が有力視されているが、決定的な証拠は得られていない。原因究明が困難な理由として、参加者が衝撃で記憶が曖昧になっている事、事故発生地点が急カーブで多くの便座レーサーが入り乱れてごちゃごちゃしていて、VTRを見ても何が起きているかよくわからない点が挙げられる。最も近くで目撃した一人であるブリュッセル氏も「ごちゃごちゃしててよくわからなかった」と話している。
■大掃除
ザヤック会長の「分かりやすい便座レース」のスローガンの下、様々なメーカーのパーツが使用禁止となった一方、ザヤック会長と関係の深い企業のパーツは明らかに優遇されていた。独自の路線で知られるトイレパーツメーカー「KANBALI」は一時経営難に陥る程の打撃を受け、KANBALIパーツを使いこなし「策士」と呼ばれたゲーヒン選手は活躍の場を失う結果となった。
■乱立する便座レース団体
大逆流事故により、「便座レースは危険」という意識が広まり、一時的に便座レースは冬の時代を迎える。国際便座レース連盟も規模を縮小せざるをえなかった。その後2010年以降になると便座の安全性が大幅に見直され、世界各地で便座レース団体が設立されるようになる。また、チームに所属しない個人レベルでの高速レースが盛んになる。技術革新によって、安価でレース用のフンバルトエンジンが手に入る事になったのが要因である。一方でレギュレーションやルールが複雑化している側面もあり、課題となっている。
■便座の政治利用に関する懸念
大陸製トイレタンク「小三便」が個人情報を取得していた疑惑が浮上し、アメリカが大陸製トイレ用品を締め出す動きとなった。当局は情報の取得に関して否定しているが、元探検家で自由便主義者のハラクーダ氏は「自由なトイレカスタマイズ、便座の自由が侵害されるのではないか」と危惧している。